給湯室へようこそ、コトブキです。
「いろんなところに行きましたシリーズ」天草編~青も夕陽も~
(第一話「熊本へ」)
(第二話「崎津教会」)
(第三話「 夕陽のマリア像を撮る」)
第四話は、祗園橋 の巻。
※PCの文字入力の仕様により「祇園」と出ますが、「ぎ」の字は正式には「ネ(しめすへん)」に「氏」です。
天草市内を流れる 町山口川 にかかる、国内最大級の石造桁橋です。
このつくりは正式には「桁梁円弧型多脚柱付大石橋」というそうです。
河口付近なため潮の干満の影響があり、このときはやや引き潮で
川底の岩盤が見え、これまた橋の一部かのようで、石橋の本来の姿のように思えました。
寛永十四(1637)年の天草一揆当時、このあたりは激戦区であり
天草四郎率いる宗徒軍と、対立する唐津軍の両軍の戦死者がたくさん流れ着いたと
言い伝えられています。
それから200年後の、家斉の世となった天保三(1832)年。
上記の天草一揆での切支丹殉教二百年をめどに地元の人々の協力で造られ、
今もなおしっかりとそこに立っています。伊能忠敬が大日本海興地図を完成させた年だそうで。
そうなんだ!地図完成200年記念で石碑建てようよ!……ってなりませんよね?
話が散らかってすみませんが、まぁお付き合い下さい。
何が言いたいかというと、
200年前の出来事のために記念碑を建てるようなことを、いきなりするでしょうか?
そう、いきなりは、しないと思うんです。
そう、いきなりは、しないと思うんです。
天草一揆の後ずっとずっと200年もの間、「おじいさんの時代にな…」「ひいじいさんの時代にな…」「じいさんのじいさんの時代にな…」と、継続して大切に語られ続けていたからこそ、「200年の節目に、後世に残る立派なものを」という意識になったのではないかと。
語られ続ける条件として、江戸時代は庶民の生活様式がガラッと変化することは
しばらく無く、一揆を知らない世代にもイメージがしやすかったのかもしれません。
それにしても、天草での歴史を、地元の方々が当時から「語り継ぐべき出来事」として
大切にしてきたということに他ならないと、
語られ続ける条件として、江戸時代は庶民の生活様式がガラッと変化することは
しばらく無く、一揆を知らない世代にもイメージがしやすかったのかもしれません。
それにしても、天草での歴史を、地元の方々が当時から「語り継ぐべき出来事」として
大切にしてきたということに他ならないと、
またもや勝手な思いを馳せながら、重厚な橋を渡らせていただいたコトブキなのでした。
さて天草編、せっかくなのでもうしばらく続きます。
次回は、不思議な海の風景、御輿来(おこしき)海岸のお話にしようかな…。
おたのしみに!
次回は、不思議な海の風景、御輿来(おこしき)海岸のお話にしようかな…。
おたのしみに!
★コトブキ★